編集長のつぶやき
2011年03月号 「十年お父さん業」
「お母さんっ!お母さんっ!」
子ども達がもの心ついてから、一生懸命名前を呼んで頼って来るのって正味10年間なのかなあって私は思っています。
言い方を変えると、お父さんという仕事が出来るのは、たったの10年しかないのかなあって…寂しい事を考えてしまったりします。
実際、自分自身の事をふり返って見ると、やっぱり高校生になった頃は、勘違いして自分一人で生きてきたような錯覚を起こして、両親を煙たい存在に思っていたような気がします。反抗期だから…それだけで片付けてしまっては、親の想いに失礼になります。やっぱり、後に高校期の心が、私に最大の後悔を生ませました。私が19歳の時に、父が急死。
当時、深い悲しみの中、思い出されてくるのは父とのキャッチボール…。無類の野球好きな父は、しょっちゅう私にグローブを差し出し笑顔で「行こかあ」と誘っていた。後で聞いた話ですが父は、私が10歳の時、余命3ケ月と宣告されていたそうです。奇跡的に持ち直し、10年近く普通に仕事しながら生きることが出来たそうです。そんな体でも、父は私をキャッチボールに誘っていたのです。
私が中学2年のある夕暮れの事でした。
中学の野球部入部以来なかなか出来なかったのですが久しぶりに父とのキャッチボールをする事に…。父と小さい頃からやっていた、家に程近いグランドでキャッチボールが始まった。2、3球目「ドスっ」ボールが父の胸に当たり、鈍い音とともに父がしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」「上等、上等」父はすぐに立ち上がり、まだ明るいはずの空を見上げ、「まあ、暗いでボールが見難い。帰ろか」と私を置いて歩き始めた。私はなぜか涙が止まりませんでした。
残念ながら、それが生涯父との最後のキャッチボールとなってしまいました。あの時、父は何を感じていたのだろう。
ただ、父親の立場になって今解かった事は、父は無類の野球好きだからではなく、息子が好きだからいつもキャッチボールに誘ってくれていたと言う事。
話を戻します。我が子が多くの事を学ぶ時期に真剣に向き合える時間は限られています。「お父さんっ、お父さんっ!」と頼られる10年を大切にしたいと思っています。私には今、幸いにして丈夫な体がある、それは両親からの最大のプレゼントと感謝し、仕事で疲れた等と自分に言い訳をせず、これからも子ども達をキャッチボールに誘って行きたいと思っています。
無類の野球好きだからではなく…。
亡き父と同気持ちだから…。
編集長 中村和久